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七宝の宝池いさぎよく [『浄土和讃』を読む(その91)]

(8)七宝の宝池いさぎよく

 次に宝池をうたう和讃が2首つづきます。

 「七宝(しっぽう)の宝池(ほうち)いさぎよく 八功徳水みちみてり 無漏(むろ、煩悩がないこと)の依果不思議なり 功徳蔵を帰命せよ」(第45首)。
 「浄土の池は清らかで、功徳の水がみちみちる。仏の智慧の不思議なり。功徳の蔵に帰命せん」。

 「三途(地獄・餓鬼・畜生)苦難ながくとぢ 但有自然快楽音(たんうじねんけらくおん) このゆゑ安楽となづけたり 無極尊(むごくそん)を帰命せよ」(第46首)。
 「波の妙なる音がして、三途の苦悩きえはてる。安楽とこそいうゆえん。阿弥陀如来に帰命せん」。

 『無量寿経』の当該箇所にはこんなふうに叙述されています。底に七宝が敷き詰められた浴池があり、八功徳水が湛えられていて、その水は「清浄香潔にして、味わい甘露のごとし」。そして水浴すると「神(こころ)を開き体を悦ばしめ、心垢(しんく)を蕩除(とうじょ)す」。またその波の音は「自然の妙声(みょうしょう)」をあげ、それを聞くと「歓喜すること無量なり」。そこには「三途苦難の名あることなく、ただ自然の快楽の音のみあり」。だからそこを安楽と名づける、と。
 浴池と言えばプールです。ぼくらにとって自宅にプールがある生活というのは、ひと昔前のアメリカ映画の中でだけ見ることのできる豊かさの象徴でした。またバリ島旅行の折、ホテルのプールで過ごしたひとときはまさに至福でした。眼下に海を望み、周囲は熱帯の木々がそよいで、色とりどりの小鳥たちが心地よい囀りを聞かせてくれます。ああ、極楽とはこんなところだろうなと思ったものです。しかし和讃がうたう宝池は、そのような五感を楽しませてくれる場所ではないはずです。
 この池の水は「心垢を蕩除」してくれると経にあります。身の垢ではなく心の垢を取り除いてくれるのです。善導は「身は穢土にあれども、心はすでにつねに浄土に居す」と言っていますが、身は「三途苦難」のなかにあっても、心はすでに「安楽」のなかにあるということでしょう。しかし身が苦難のなかにあるのに、どうして心は安楽で居られるのでしょう。身と心はそのように都合よく切り離せるものでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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