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身と心 [『浄土和讃』を読む(その92)]

(9)身と心

 身の苦難といっても、実は心の苦難ではないでしょうか。そして弥陀の光明と名号はその心の苦難を蕩除してくれ、心は安楽でいられるようになるのではないか。
 身の苦難の代表として病苦を考えてみましょう。病気になって苦しいと言うとき、何が苦しいのか。もちろん身体のどこかに痛みがあって苦しいのですが、もしその痛みが明日になればすっかりなくなってしまうということが分かっていれば、それほど苦しまないでしょう。医者が薬を出してくれ、「これを飲んで寝れば、明朝には治っていますよ」と言ってくれれば、もう痛みはそれほど苦にならなくなるものです。
 としますと、病苦の本質は、痛みの得体が知れず、いつまで続くか分からないということにあるのではないか。つまりぼくらは「ただいま」が苦しいのではなく、「これから」が苦しいのだということです。いや、もっと正確に言いますと、「ただいま」が苦しいのですが、それは「これから」のことを思い煩うからだということです。もし「これから」のことを思い煩わなくてもいいなら、さほど苦しくないのではないか。
 動物たちは「これから」のことを思い煩わないでしょうから、病気になってもさほど苦しまないと思います。もちろん彼らも痛みそのものの苦しみはあるでしょうが(だから、ぐったりして、悲しそうな眼をするでしょうが)、でも心は苦しんでいないはずです。彼らに「明日」という時間はないのですから。こんなふうに言うと、動物愛好家の皆さんから猛然と反論が返ってきそうな気がします、彼らも「明日」のことを心配していると。
 動物にも心はあるから、「これまで」のことを思うし、「これから」のことも思うに違いない。屠殺場に引かれていく牛が何とも悲しげな声を出すのは、彼らも「これから」起るであろうことを予期しているからだ、と。ぼくも動物に心があることを否定しませんが、だからと言って彼らが「これまで」のことや「これから」のことを考えていることにはなりません。屠殺場に引かれる牛が悲しい声を出すのは「これから」のことを予期しているからではなく、何かいつもと違う様子に異変を感じているだけです、ちょうど鹿がライオンの気配を察知して声を上げるように。

タグ:親鸞を読む
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