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明日を思い煩う [『浄土和讃』を読む(その93)]

(10)明日を思い煩う

 苦しみの本質は「これから」にあるということを見てきました。「これから」の不安がぼくらを苦しめるということです。身の苦難とは言っても実は心の苦難であるというのはそういうことです。さてでは弥陀の光明と名号がその心の苦難を蕩除してくれるというのはどういうことでしょう。弥陀の光明が感じられ、その名号が聞こえると、心が歓喜し安楽を得るのはどうしてか。
 光明と名号に遇うことで、「これから」の不安がすっかり消えてしまうことはありません。ぼくらが「これから」という時間を手に入れたことに伴い、「これから」の不安もおのずと背負い込むことになったのですから。もし「これから」の不安がきれいに消えたとしますと、それは「これから」という時間をすっかり手放したということです。動物たちと同じ境遇に戻るということです。
 動物たちを見ていて、つくづく彼らは悟っているなあ、と思うことがあります。どんな状況におかれても「明日を思い煩う」ことがないように見えるからです。何とも羨ましいとは思いますが、そのような境遇に戻ることはもはや不可能です。ぼくらは「時間」を手に入れた見返りに、「明日を思い煩う」という病気を背負い込んでしまったのです。では、再度問いましょう、光明と名号に遇うことで何が起こるのか。
 光明と名号に遇うというのは、「明日を思い煩う」という病気を背負いながらあくせく生きていることがそのまま丸ごと肯定されていると感じることです。「そのまま生きていていい」という声を聞くことです。そうしますと、自分がどれほど明日を思い煩いながらあくせく生きているかが光の中にくっきり浮かび上がり、「ああ、これが自分のほんとうの姿なのだ」とあらためて思い知らされます。そして不思議なことに、それだけのことで、あくせくしている心が和らぐのです。
 明日を思い煩うことがなくなるわけではありません。でも、安心して思い煩うようになるのです。これは病気だ、と気づくことで、病気の苦しみが和らぐのです。

タグ:親鸞を読む
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