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十方三世の無量慧 [『浄土和讃』を読む(その94)]

(11)十方三世の無量慧

 「讃阿弥陀仏偈和讃」も残すところあと4首となりました。そのうち次の2首は阿弥陀仏と諸仏の関係をうたいます。

 「十方三世の無量慧 おなじく一如に乗じてぞ 二智円満道平等 摂化(せっけ、教化すること)随縁不思議なり」(第47首)。
 「十方三世の諸仏たち、おなじ一如に乗じては、智恵も悟りもひとつにて、有縁の衆生たすけたり」。

 「弥陀の浄土に帰しぬれば すなはち諸仏に帰するなり 一心をもちて一仏を ほむるは無碍人をほむるなり」(第48首)。
 「弥陀の浄土を仰ぐこと、つまり諸仏に帰すること。一心帰命あみだぶつ。一心帰命ほとけたち」。

 もとの曇鸞の偈はこうあります。「十方三世の無量慧 同じく一如に乗じて正覚を号したまふ 二智円満して道平等なり 摂化縁に随ふがゆゑに若干なり われ阿弥陀の浄土に帰するは すなはちこれ諸仏の国に帰命するなり われ一心をもつて一仏を讃ず 願はくは十方無碍人にあまねからん かくのごとき十方無量の仏 ことごとくおのおの心を至して頭面をもつて礼したてまつる」。
 「無量慧」、「無碍人」はいずれも諸仏を指します。十方の諸仏は、みな一如の悟りを得ているのだから平等で、ただ衆生との縁に随って分かれているだけだから、阿弥陀仏に帰命するのは諸仏に帰命することだというのです。「二智」というのは、一切は空であると悟る「実智」と、衆生を救うための方便の智である「権智(ごんち)」のことです。そして「道平等なり」の「道」とは「菩提」つまり悟りのことで、同じ悟りを得ているということです。
 ここであらためて思い起こしたいのは、仏とは光であり声であるということ、つまり形として見えるのではないということです。仏とは、明日を思い煩いながらあくせくしているわれらの姿を浮かび上がらせてくれる光であり、「そのまま生きていていい」と呼びかけてくれる声です。ですから、諸仏とは言っても、あちらに薬師如来がいて、こちらに大日如来がいるというのではありません。

タグ:親鸞を読む
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