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実智と権智 [『浄土和讃』を読む(その95)]

(12)実智と権智

 ではなぜ阿弥陀仏一仏ではなく、十方三世の諸仏がいるのか。それは、光は一つであり、声は一つであるとはいえ、それを受けとるわれらには、一人ひとり格別の光であり、格別の声であるということです。「五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(『歎異抄』後序)で、弥陀の光明と名号は一切衆生のためであるけれども、それを頂くわれらにとって「ひとへに自分一人のため」です。この光は他ならぬこの自分が頂いた光であり、この声は他ならぬこの自分に届いた声です。かくして一仏はおのずから諸仏となる。
 仏には二智、すなわち「実智と権智」があることからも、仏は「ひとつ」であると同時に「無量」であると言うことができます。実智においては「一切は空」ですから、そこにおいてすべては平等であり、何の差別もありません。だから仏に区別があるわけがなく、そもそも仏と衆生の別もありません。しかし権智とは仏が衆生を救うための智ですから、そこではおのずから衆生の抱えている事情に応じてその姿が変らざるをえません。かくして「ひとつ」の仏が「無量」の仏となります。
 実智と権智についてもう少し考えてみたいと思います。
 この間こんなことがありました。講座で「往生は“これから”であるはずなのに、どうして“ただいま”往生を得る(即得往生)ことになるのか」という話をしたのですが、それを聞かれた方が「わたしには“これから”も“ただいま”もありません。そんな区別をしなけれなければいけないことがピンときません」という感想を漏らされました。ぼくはこんなふうに答えました、「あなたはおそらく“これから”がそのまま“ただいま”であるという不思議をすでに味わわれたからそんなふうに思われるのでしょうが、ぼくとしてはそれをただ不思議として終らせるのではなく、その不思議を何とかしてことばにしたいと思うのです」と。

タグ:親鸞を読む
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