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願われているから願うことができる [『浄土和讃』を読む(その97)]

(14)願われているから願うことができる

 あけましておめでとうございます。年が改まりましても一向にかわり映えしませんが、ともあれ今年もよろしくお願い申し上げます。

 われらが願うことができるのも、弥陀に至心に願われているからだということ。ここに親鸞浄土教の核心があります。
 われらが往生を願うから叶えられるのはその通りですが、われらが往生を願うことができるのは、それに先立って弥陀から至心に願われているからだということです。願われているから願うことができる。福音書にこうあります、「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」(「マタイ伝」第7章)と。しかし、求めるのも、尋ねるのも、門を叩くのも、それができるのは、そうするようすでに願われているからではないでしょうか。
 そうだろうか、という疑問の声が聞こえてきます。そうするよう願われていようがいまいが、そんなことに関係なく願うことができるのではないか、と。願うのは自由であり、誰からも願われていなくても、そんなことを気にすることなく願うことはできる、と。一応もっとものようですが、でも願いがなかなか叶わないようなとき、いつまでも願い続けることができるでしょうか。願うことですぐ叶うようなことならいいですが、ぼくらの切実な願いというのはじっと願い続けることを求められるのが普通です。それができるのは、やはり願われているからではないか。
 アスリートたちのことを考えてみましょう。彼らが高みを目指すことができるのも、それが多くの人たちから願われていると感じているからではないかと。思うような結果がなかなか出ないとき、こころが折れそうになり、「もういいか」と投げ出したくなると思いますが、そこを踏みとどまらせる最後の力となるのが、応援してくれている多くの人たちの声ではないでしょうか。やはり願われているから願うことができるのです。願うこと自体が誰かに支えられているのです。

タグ:親鸞を読む
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