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阿難と釈迦のやりとり [『浄土和讃』を読む(その100)]

(2)阿難と釈迦のやりとり

 そして和讃はこう続きます。

 「如来の光瑞希有にして 阿難はなはだこころよく 如是之義(にょぜしぎ)ととへりしに 出世の本意をあらはせり」(第52首)。
 「あなたのお顔のかがやきは、どんなわけかと阿難問い、よくぞ尋ねてくれたとて、出世の本懐語られた」。

 釈迦の尋常ならざる様子に驚いた阿難はこう言います、「今日、世尊は奇特の法に住したもう。今日、世雄(せおう)は仏の所住に住したもう。今日、世眼は導師の行に住したもう。今日、世英(せよう)は最勝の道に住したもう。今日、天尊は如来の徳を行じたもう。去来現の仏は、仏と仏とあい念じたもう。今の仏も諸仏を念じたもうことなきをえんや。なにがゆえに、威神の光光たること、いまししかるや」と。
 和讃の「如是之義ととへり」とは、経のこの部分を指していると思われます。阿難が、わたしはこんなふうに思うのですが、いかがでしょうかと問うているのです、あなたがこんなにも威神光光としておいでになるのは、「仏と仏とあい念じたもう」ているに違いありません、と。これを受けて釈迦は「出世の本意」である弥陀の本願を語ることになるのですが、その前にもう一段のやり取りがあります。それが次の和讃です。

 「大寂定(だいじゃくじょう、禅定の境地)にいりたまひ 如来の光顔たへにして 阿難の慧見をみそなはし 聞斯慧義(もんしえぎ)とほめたまふ」(第53首)。
 「大寂定に入りたまい、お顔はたえにかがやいて、阿難そのわけ尋ねしを、すぐれた智恵とほめたまう」。

 阿難の問いを受けて、釈迦は逆に問います、「いかんぞ阿難よ、諸天の汝を教えて、仏に来り問わしむるや。みずから慧見をもって威顔を問うや」と。それに対して阿難は「みずから所見をもって、この義を問いたてまつるのみ」と答えます。そうしますと釈迦はおおきに喜び、こう言うのです、「よいかな、阿難よ、問えるところ甚だ快し。深き智慧と真妙の弁才を発(おこ)し、衆生を愍念して(みんねん、哀れみのこころをもって)、この慧義を問えり」と。「聞斯慧義(この慧義を問えり)」は先の和讃の「如是之義(このごとくの義)」と対をなしていることが分かります。

タグ:親鸞を読む
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