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如来興世の本意 [『浄土和讃』を読む(その101)]

(3)如来興世の本意

 かくして釈迦は「興世の本意(この世に現れたわけ)」を語ることになるのですが、そこを和讃はこううたいます。

 「如来興世の本意には 本願真実ひらきてぞ 難値難見(なんちなんけん、値いがたく見たてまつりがたし)とときたまひ 猶霊瑞華(ゆれいずいけ、なお霊瑞華のごとし)としめしける」(第54首)。
 「わたしがここに来たわけは、弥陀の本願とくためぞ。遇いがたくして聞きがたし。なお優曇華(うどんげ)とおなじよう」。

 経によりますと、釈迦は阿難の問いを褒めた後、こう述べます、「如来、無蓋の大悲をもて三界を矜哀(こうあい)したもう。ゆえに世に出興して、道教を光闡(こうせん、明らかにする)し、群萌(ぐんもう)を拯(すく)い、恵むに真実の利をもってせんと欲す。無量億劫にも値(あ)い難く見たてまつり難きこと、なお霊瑞華(れいずいけ、優曇華とも、三千年に一度咲くと言われる)のときどきにいまし出ずるがごとし」と。
 このあと経は「正宗分」に入り、釈迦はいよいよ弥陀の本願について語り始めるのですが、その前段である「序分」に親鸞は4首も割いているのです。どうしてこんなに「序分」が大切にされるのだろうと首をかしげたくなります。そういえば、はじめて『教行信証』の「教巻」を読んだときも、似たような印象をもったことを思い出します。「教巻」は他の諸巻と比べてきわめて短く(岩波文庫版で5ページばかり)、その内容はいま読んできました和讃4首と同じく「序分」の所説です。
 親鸞はまず「真実の教をあらはさば、すなはち大無量寿経これなり」とし、「如来の本願をとくを経の宗致とす。すなはち仏の名号をもて経の体とするなり」と述べます。弥陀の本願と名号を説く『無量寿経』にこそ、釈迦の教えの真髄があるというのですが、その根拠として上げられるのがこの「序分」の文章なのです。どうやらぼくは勝手に思い込んでいたようです、「教巻」というからには『無量寿経』に説かれている釈迦の教えについて堂々と論を張るものだ、と。ところが、ただその「序分」の文章が引かれるだけですから、何か肩すかしにあったような思いにさせられたのです。
 ここには何か思いを潜めなければならないことがありそうです。

タグ:親鸞を読む
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