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願い [『浄土和讃』を読む(その104)]

(6)願い

 「空」や「無我」と言いますと、正装して対座しなければならないような格式の高さがあり、どこかよそよそしさがありますが、「願い」の方は日々の生活の中に溶け込み、普段着の親しみやすさを感じます。ぼくらの生活はその人ごとにさまざまな願いによって織り上げられていると言えるでしょう。それをひと言にしてしまいますと「日々を幸せに安心して暮らせますように」という願いになるでしょうか。
 高踏な理論はこうした庶民の願いを小ばかにしてかかります。仏教でも「現世利益」ということばには軽侮の響きがあります。しかし、こうした日常の願いを小ばかにしてかかる人も、自身が病気でもなれば、もう頭の中は病気のことばかりで、大事なはずの理論のことなどどこ吹く風でしょう。レーヴィットの譬えで言えば、二階のことなどまったく忘れられてしまいます。
 さて、浄土教は生活のことばとしての「願い」から話を始めます。ただ、こちらから「願う」ということではなく、向こうから「願われる」ということについてです。
 ぼくらは「日々を幸せに安心して暮らせますように」と願っていますが、あるときふと、それは自分が願っているには違いないが、実は大いなる願いとして生きとし生けるものたちみんなにかけられているのではないかと感じることがあります。孫悟空が自分の力で世界の果てまで駆けていったと思っていたが、ふと気づくと、すべてはお釈迦様の手のひらの上のことだった、というように。
 生きとし生けるものすべてにかけられている大いなる願い、これが「弥陀の本願」です。本願と訳されるもとのサンスクリットは「プールヴァ・プラニダーナ」で、「プールヴァ」は「前の」の意で、「プラニダーナ」は「願い」です。前もって願いが立てられ、それが成就するということで、仏が菩薩であったとき(因位にあったとき)に立てた願いを「プールヴァ・プラニダーナ」といいます。
タグ:親鸞を読む
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