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久遠の本願 [『浄土和讃』を読む(その107)]

(9)久遠の本願

 次の和讃です。

 「南無不可思議光仏 饒王仏(にょうおうぶつ、世自在王仏のこと)のみもとにて 十方浄土のなかよりぞ 本願選択摂取する」(第56首)。
 「弥陀法蔵とあらわれて、饒王仏におしえこい、十方浄土みくらべて、超世の願をたてられる」。

 まず注目しなければならないのが、主語が不可思議光仏、すなわち阿弥陀仏であり、法蔵菩薩ではないということです。法蔵菩薩が成仏して阿弥陀仏になられたはずなのに、ここでは阿弥陀仏が誓願を立てられたとありますが、これは何を意味するのでしょう。法蔵菩薩が成仏して阿弥陀仏になったには違いないのですが、実を言うと、阿弥陀仏が法蔵菩薩の姿をまとって現れたのだということです。
 つまり法蔵菩薩より以前から弥陀の本願はあり、法蔵がそれをはじめて創り出したのではないのです。法蔵は久遠の本願について語っただけであるということをさらにはっきり示すのが「十方浄土のなかよりぞ 本願選択摂取する」という文言です。正信偈のことばを借りますと、「法蔵菩薩、因位のとき、世自在王仏のみもとにありて、諸仏の浄土の因、国土・人天の善悪を覩見して、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり」ということで、法蔵が本願を建立したのはその通りですが、しかしそれは諸仏の浄土においてすでに実現されていた願いを「選択摂取」したにすぎないのです。
 釈迦は弥陀の本願をリレーしただけであるように、法蔵もまた弥陀の本願をリレーしただけであるということ。釈迦が弥陀の本願について語ることで、久遠の本願がはじまったように、法蔵が弥陀の本願を選択摂取したことで、久遠の本願にはじめが穿たれたのです。このように久遠の本願は、それを誰かが受け継ぐことで、そのつどはじまるのです。法然が善導から本願をリレーしたとき新たに本願がはじまり、親鸞が法然から本願をリレーしたときまた本願がはじまった。
 「むかしの本願がいまはじまる」(曽我量深)のです。

タグ:親鸞を読む
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