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不安という病 [『浄土和讃』を読む(その109)]

(11)不安という病

 少し前のところで(6)、ぼくらは「毎日を幸せに安心して暮らせますように」と願っているが、あるときふと、自分がそう願っているのに違いないが、それは実は大いなる願いとして生きとし生けるものにかけられているのではないかと感じることがあると言いました。それがひかりに遇うということです。そのとき、思いもかけない智慧をいただいたような気持ちになり、喜びが込み上げてきます。しかし、それは同時におのれのなかに渦巻く貪欲・瞋恚・愚痴の三毒に気づくことです。
 どういうことか。
 「毎日を幸せに安心して暮らせますように」と願うということは、裏返せば日々不安があるということです。いまが幸せであると感じている人は、明日もこの幸せが続くだろうか、ひょっとしたらとんでもない不幸に見舞われるのではないかと不安になり、反対に、いまが不幸せと感じている人は、明日もこの不幸せが続くのだろうか、いやさらにひどくなるのではないかと不安になる。そこから「毎日を幸せに安心して暮らせますように」という切なる願いが生まれてくるのです。
 願いと不安は裏腹です。それはあたりまえのこととして、ふだん気にも留めませんが、あるときふと、こんな不安をもたらしているのは貪欲・瞋恚・愚痴ではないかと気づかされます。明日もこの幸せが続くだろうかと不安になるのは、もっと幸せでありたいと欲を出しているからですし、明日もこの不幸せが続くのだろうかと不安になるのは、いまの不幸せに怒りを感じ、こんなはずじゃないと愚痴をこぼしているからだと。この気づきは、大いなる願い(本願)が生きとし生けるものにかけられているという気づきとともに起ります。
 機の深信と法の深信です。機の悲しみと法の喜びが同時であるということ、これはいつ考えても、どう考えても不思議です。

タグ:親鸞を読む
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