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ひかりに抱きとめられて [『浄土和讃』を読む(その110)]

(12)ひかりに抱きとめられて

 身体の調子がおかしくなりますと、不安に駆られます、これはどうしたことだろう、これからどんどん悪くなるのではなかろうかと。その得体が知れないことで不安が募るのです。で、医者に診てもらい、病名がはっきりしますと、それだけで不安は和らぎます。同じように、「毎日を幸せに安心して暮らせますように」という願いの裏側にある不安も、その元凶がわが内なる貪欲・瞋恚・愚痴であることが突き止められますと、不思議に和らぎます。
 得体が知れるだけで、どうして不安が和らぐのかと言いますと、わが内なる貪欲・瞋恚・愚痴を照らしだすひかりは、同時にわが外なる本願も照らしだすからです。いや、この言い方は誤解を生むもとです。こう言うべきでしょう、わが内なる貪欲・瞋恚・愚痴を照らしだすひかりは他ならぬ本願のひかりだからと。本願のひかりは、貪欲・瞋恚・愚痴のゆえに不安をかこちながら生きているわれらを抱きとめてくれるのです、「そのまま生きていていい」と。
 このひかりに抱きとめられることで、欲、怒り、愚かさがもたらす不安が和らぎます。欲、怒り、愚かさが消えるわけではありませんが、その毒が和らぐのです。「清浄・歓喜・智慧光 その徳不可思議にして 十方諸有を利益せり」とはそういうことです。
 さてこのひかりは十方諸有に届いているのですが、十方諸有がそれに気づかなければ何ともなりません。ひかりに遇うということは、ひかりに気づくということです。ひかりに遇うことがなければ、それに気づかなければ、ひかりは存在しません。太陽のひかりはそれに気づこうが気づくまいが、そんなことに関係なく存在しますが、弥陀のひかりは、それに気づいてはじめて存在するのです。
 次の和讃はそれをうたいます。

タグ:親鸞を読む
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