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遇いがたし [『浄土和讃』を読む(その112)]

(14)遇いがたし

 その疑問といいますのは、名号、光明のみならず、信心までも与えられるなら、どうして一方に信心の人がいて、他方に不信心の人がいるのか、ということです。みんな例外なく信心しているはずではないか、と。信じるとは気づくことであるというところに戻り、この疑問について考えてみましょう。
 本願を信じるというのは、本願に気づくということです。そして「賜りたる信心」というのは、本願が与えられているだけでなく、本願の気づきも与えられるということです。ではなぜ気づいている人がいる一方で、気づいていない人がいるのか、これが問題です。
 そう言えば、第54首にこうありました、「如来興世の本意には 本願真実ひらきてぞ 難値難見(なんちなんけん)とときたまひ 猶霊瑞華(ゆれいずいけ)としめしける」。釈迦如来が世にお出ましになったのは、弥陀の本願を明らかにするためだが、それは無量億劫にも遇いがたく、霊瑞華が三千年に一度咲くようなものだと言うのです。『教行信証』の序には「遇ひがたくしていま遇ふことをえたり」とありました。弥陀は本願を与えるだけでなく、それに遇えるようはからってくださっているはずなのに、どうしてそれほど「遇いがたい」のか。
 ここで『大阿弥陀経』(『無量寿経』の異訳)の第4願を思い出しますと、「諸天人民蜎飛蠕動(けんぴねんどう)のたぐひ、わが名字をききて慈心(喜び)せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわがくにに来生せしめ」とありました。諸仏がほめたたえるわが名号を聞くものは、天の神々、人間、そして空を飛び地を這うさまざまな虫たちに及ぶまで心躍るに違いないというのです。
 このように、虫たちまで、生きとし生けるものすべてが名号を喜んでいるのに、喜ばないでいるのは人間だけではないでしょうか。ぼくの小さな庭の柿の木にやってくる小鳥たちを見ていますと、本願を喜んで何の憂いもないように思えます。ひとり人間たちだけが明日を思い煩っている。

タグ:親鸞を読む
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