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どういうわけか気づきが [『浄土和讃』を読む(その114)]

(16)どういうわけか気づきが

 本願のひかりがみんなに届いていること、そのことに気づくのが信ずることであるということ、ところがバリアがその気づきを邪魔していること、しかしバリアをくぐって気づきが起ること、そのときが正定聚になるときであることを見てきました。ここでまだ疑問が残るでしょう。ある人においてバリアをくぐって気づきが起こるのに、どうして他の人においては起らないのかという疑問です。その差は何なのか。
 ここでこんなふうに答える誘惑に駆られます。その差というのは機の深信があるかないかだと。機の深信がある人は法の深信に至ることができ、本願に気づくのだが、それがない人は気づけない、と。この答えは一見もっともなようで、本によってはそのように書いてあるものもあります。しかし、この言い方をしますと、機の深信をもつことがその人の力によることになり、ひいては法の深信も自力になってしまわないでしょうか。
 これでは賜りたる信心ではなくなります。これまで述べてきましたように、機の深信も法の深信と同時に向こうから気づかされるのです。
 仕切りなおしまして、気づく人と気づかない人の差はいったい何でしょう。残念ながらこれに答えるすべはありません。そもそも気づきには「どうして?」という問いが成り立たないのです。そうしようとしてしたことなら「どうして?」と問えますが、気づきは思いもかけず向こうからやってくるのですから、「あなたはどうして気づいたのですか」と訊かれても答えようがありません。また、気づかない人が「あなたはどうして気づかないのですか」と訊かれても、ポカンとするしかないでしょう。
 バリアがあって本願のひかりに遇うのは難しいが、どういうわけかある人にはそのバリアをくぐって気づきが起こり、どういうわけかある人にはバリアに妨げられて気づきが起らない、としか言いようがありません。無理に説明しようとするなら、前世の業とでも言うしか手はありません。

タグ:親鸞を読む
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