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方便ということ [『浄土和讃』を読む(その116)]

(18)方便ということ

 往生において男も女もないが、「方便」として変成男子を説いているということを見てきました。
 どうして「救いにおいて男も女もない」と説かずに、「女は男に生まれ変わって救われる」と説くのかといいますと、女は成仏できないという社会通念がはびこっている中で「女も男と変わりない」と言い放つだけでしたら、ただ反発を招くしかないからに違いありません。先にも言いましたように、ぼくらの中には無意識のうちに差別のこころが蠢いています。そのことを慮ることなく、みな平等だと言うだけでは、はねつけられておしまいです。大事なことは、ぼくらがこれまで意識していなかった内なる差別心を意識にのぼらせることですから、回り道を取ることが必要となるのです。これが方便です。
 次の和讃は「方便」の願である第19願をうたいます。

 「至心・発願・欲生と 十方衆生を方便し 衆善の仮門(しゅえんのけもん)ひらきてぞ 現其人前(げんごにんぜん)と願じける」(第61首)。
 「至心・発願・欲生と、十方衆生にすすめつつ、方便の門ひらいては、迎えにゆくと誓いたり」。

 第19願を上げておきましょう。「十方の衆生、菩提心をおこし、もろもろの功徳を修し、心を至し発願してわがくにに生ぜん(至心発願欲生我国)とおもはん。寿終(じゅじゅ)のときにのぞんで、…そのひとのまへに現ぜ(現其人前)ずといはば正覚をとらじ」。親鸞は第18願が真実の願で、第19願(と第20願)を方便の願と位置づけます。衆善の「仮門」というのはそういうことで、衆善とは「もろもろの功徳を修し」を指しています。さまざまな善を積み重ねることにより往生しようとするということです。そのような人の臨終にその前に現れ浄土へ迎えようと誓っているのです。
 第18願の「至心・信楽・欲生」と第19願の「至心・発願・欲生」。その見かけはそっくりですが、そのベクトルの向きが逆さまです、「弥陀からわれらへ」と「われらから弥陀へ」というように。前者は「弥陀がわれらの往生を至心に願ってくださる」ということですが、後者は「われらが往生を至心に願う」ということです。

タグ:親鸞を読む
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