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心を至し発願して [『浄土和讃』を読む(その117)]

(19)心を至し発願して

 第58首と第59首で18願のこころと11願のこころがうたわれました。それをひとまとめにしますと、弥陀の大いなる願いがわれら生きとし生けるものの上にかけられていることに気づけば、そのときその場で救われる(「すなはち定聚のかずにいる」)ということでした。ここに他力の真実があるとしますと、どうして方便が必要になるのでしょうか。その真実を直截簡明に説けばいいのではないのでしょうか。なぜ第19願(と第20願)が必要になるのか。
 どのようにして他力の真実がやってくるかを確認しておきますと、ぼくらは日々「幸せになりたい」と切に願っているなかで、あるときふと、どこかからそのように願われていることに気づくのです。生きとし生けるものすべてに大いなる願いがかけられていると感じるのです。これが本願のひかりに遇うという不思議な瞬間ですが、これは求めて得られるものではありません、どういうわけかある人にやってきます。そしてその人は「あゝ、願われているから願うことができるのだ」と実感するのです。
 さてしかし、まだその時がやってきていない人がいます。問題はその人にどう語るかです。その時がやってきた人には直截簡明に語ればいいでしょう、「願われているから願うことができる」と。それだけでともに他力の真実を喜ぶことができるでしょう。しかしまだやってきていない人には違う語り方が必要になります。その人にも同じように「願われているから願うことができる」と言うだけでは、「いったい誰に願われているというのか。別に誰かから願われていなくても、願うことはできる」と反発されるしかないでしょう。
 そこで第19願の出番がきます、「心を至し発願してわがくにに生ぜんとおもは」ば、いつの日か必ず報わると確証するのです。幸せになりたいとこころから願えば必ずかなえられますよと勧めるのです。勧められた人は「心を至し」て願うでしょう、そしてそう願うなかで、いつしか「あゝ、願われているのだ」という気づきがあるに違いありません。これが方便ということです。

               (第6回 完)

タグ:親鸞を読む
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