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ふたたび三願転入 [『浄土和讃』を読む(その123)]

(6)ふたたび三願転入

 一方では、第20願や『小経』において、臨終の来迎を待ち望みながら一心に念仏すべしと勧められているのに、他方では「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」と述べて臨終の来迎を待つのは「いまだ真実の信心をえざるがゆへ」と言う。こころが翻弄されそうになりますが、転覆しないようにするためには一本の補助線が必要です。「事前と事後」の補助線です。すなわち本願のひかりに遇う〈前〉と、遇った〈後〉では見える景色がまったく違ってくるということです。
 少し前のところで「三願転入」に触れ(3)、「ひさしく万行諸善の仮門をいでて、ながく双樹林下の往生をはなる」という文章を引きました。親鸞が自らのこし方をふり返り、長く第19願の「万行諸善の仮門」にいたが、そこから転出したと述べているのですが、その後にこう続きます、「善本・徳本の真門に廻入して、ひとへに難思往生(なんじおうじょう)の心をおこしき。しかるにいまことに方便の真門をいでて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心をはなれて、難思議往生(なんしぎおうじょう)をとげんとおもふ」(「化身土巻」)と。
 第19願の仮門から出て、第20願の真門に入ったが、しかし「いま」その真門から出て、第18願の「選択の願海」に入ったというのです。これが本願のひかりに遇ったということに他なりません。さてしかし、こんなふうに言えるのは、本願のひかりに遇った後にそれまでをふり返ってのことです。その地点からこれまでを眺めてみると「ああ、あのときは第19願の仮門にいたのだが、あるとき第20願の真門に入ることができ、そしてついに第18願に至ることができたのだなあ」と辿ってきた道筋が見えてくるのです。
 そこからこんな思いがあふれてきます、「果遂のちかひまことにゆへあるかな。ここにひさしく願海にいりて、ふかく仏恩をしれり」(「化身土巻」)と。「果遂のちかひ」とは、第20願に「果遂せずといはば正覚をとらじ」と誓ってあることを指しています。一心に念仏して往生したいという思いを果たさせずにはおかないという仏の深いはからいを知ることができたと述懐しているのです。

タグ:親鸞を読む
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