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「幸せになってほしい」と願われている [『浄土和讃』を読む(その128)]

(11)「幸せになってほしい」と願われている

 ほんとうの幸せは田畑屋敷にあるのではないとしますと、どこにあるのでしょう。それは「幸せになりたい」と願うところにあるのではなく、「幸せになってほしい」と願われているところにあります。
 「幸せになりたい」と願うとき、何が幸せかは人それぞれでしょう。田畑のない人は、田畑のあることが幸せでしょうし、病の人は、健康であることが幸せでしょう。そしてそれらが得られれば幸せになりますが、そのときにはまた別の幸せを願うに違いありません。「幸せになりたい」という願いには切りがないのです。一方「幸せになってほしい」と願われているとき、正確に言いますと、そう願われていると気づくとき、もうそれだけで幸せです。それ以外に何もいらないと思えます、たとえそのとき田畑がなくてその日の生活に困っているとしても、たとえそのとき病の苦しみの中にあるとしても。
 方便の願である第19願と第20願についてうたい、それに対応して方便の浄土についてうたわれました。その後、いよいよ『大経』の「流通分(るずうぶん、結論部です)」に移り、次の和讃が続きます。

 「如来の興世にあひがたく 諸仏の経道(きょうどう、教え)ききがたし 菩薩の勝法きくことも 無量劫にもまれらなり」(第68首)。
 「ほとけの御代にあいがたく、ほとけの教えききがたし。菩薩の教えきくことも、なかなかもってむずかしい」。

 「序分」をうたったところでも、「如来興世の本意には 本願真実ひらきてぞ 難値難見とときたまひ 猶霊瑞華としめしける」(第54首)とあり、「大経和讃」のはじめと終わりで呼応しあっているということができます。
 「流通分」の該当箇所を上げておきますと、「如来の興世、値い難く見たてまつり難し。諸仏の経道、え難く聞き難し。菩薩の勝れし法・もろもろの波羅蜜(はらみつ、彼岸に至るための菩薩の行、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜)、聞きうることまた難し」とあります。仏や菩薩の声に遇うことは途轍もなく難しいというのです。「幸せになりたい」という声は世に満ち満ちているのに、「幸せになってほしい」という仏の声は聞こえない。

タグ:親鸞を読む
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