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聞けども聞こえず [『浄土和讃』を読む(その130)]

(13)聞けども聞こえず

 どうやらこの「わたし」が「幸せになってほしい」という声をブロックしているようです。次の和讃はさらにこううたいます。

 「善智識にあふことも をしふることもまたかたし よくきくこともかたければ 信ずることもなほかたし」(第69首)。
 「よき師に出あうことかたし、教えることもまたかたし、よくきくこともかたければ、信じることはなおかたし」。

 仏、菩薩に続いて、今度は善智識に遇うことも難しいというのです(第2句の「をしふることもまたかたし」というのは、善智識が教えてくれるのに遇うのも難しいということで、自分が誰かに教えるということではないでしょう)。
 「流通分」には、先に引用した部分にすぐ続いて、こうあります、「善智識に遇い、法を聞きてよく行ずる、これもまた難しとなす」と。善智識とはよき友、あるいはよき師といった意味ですが、広い意味の還相の菩薩と考えていいでしょう。そうした人から発せられる真実のことばもなかなか耳に入らないというのです。折にふれて「幸せになってほしい」という大いなる願いが届けられているはずなのに、どういうわけか聞こえない。
 聞けども聞こえず。
 「わたし」というのは、過去・現在・未来を通じて変らない「わたし」で、ぼくらはこうした「わたし」を擬制し身にまとったのです。動物たちには「わたし」がないと言いましたが、それは彼らに「時間」がないということに他なりません。ところがぼくらは「わたし」を身にまとい、「時間」の世界に生きるようになった結果、「幸せになってほしい」をいう声にバリアを張ってしまったと思われます。この声は「わたし」と「時間」のバリアにブロックされてしまう。
 それでも、あるときふとこの声が聞こえる。としますと、この声は「時間」のかなたからやってくるものとみえます。

タグ:親鸞を読む
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