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観経和讃 [『浄土和讃』を読む(その134)]

            第8回 三部経和讃(その3)

(1) 観経和讃

 「三部経和讃」のうち「大経和讃」22首が終わり、続いて「観経和讃」9首が始まります。
 親鸞は「大経和讃」のなかで、第19願との関連において『観経』に触れ、それを方便の経と位置づけました(第5回-20)。『大経』が真実の経であり、『観経』(と『小経』)はその方便の経だというのです。しかしその一方で『観経』は親鸞にとって非常に重要な意味を持ちます。親鸞は、『大経』は本願(すなわち法)を説くが、『観経』はそれを受ける機を説くと捉えるのです。
 親鸞は『教行信証』「教巻」において「それ真実の教をあらはさば、すなはち大無量寿経これなり」と言いながら、その前におかれた「序」で取り上げられるのは『観経』です。そこに「しかればすなはち浄邦(浄土です)、縁熟して調達(ちょうだち、提婆達多です)闍世(じゃせ、阿闍世です)をして逆害を興ぜしむ。浄業、機あらはれて釈迦韋提(いだい)をして安養をえらばしめたまへり」と述べられているのは、『観経』序分に説かれている有名な出来事についてです。
 それがどんな出来事だったかがこれから「観経和讃」で詳しく取り上げられていくことになりますが、前もってそのあらすじを簡単に述べておきますと、マガダ国の都・王舎城において、王子・阿闍世が悪友・提婆達多(だいばだった)にそそのかされて、父王・頻婆沙羅(びんばしゃら)を殺害し、助けようとした母・韋提希を幽閉するのです。絶望した韋提希は釈迦に救いを求め、それに応じて釈迦が浄土往生の教えを説くという構成になっています。
 ここに『観経』の特徴があります。つまりこの経において釈迦が教えを説く相手(対告衆-たいごうしゅ-と言います)が韋提希であるということです。『大経』では阿難と弥勒、『小経』では舎利弗で、いずれも釈迦の弟子であり「聖衆」ですが、『観経』では韋提希という「凡夫」であるということ、ここに親鸞は重要な意味を見いだしたと言えるでしょう。

タグ:親鸞を読む
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