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安楽世界をえらばしむ [『浄土和讃』を読む(その135)]

(2)安楽世界をえらばしむ

 「大経和讃」においても親鸞は『大経』の序分を重視していました。阿難と釈迦の対話の中に、釈迦出世の本懐を明らかにする鍵があると見たのでした。ここ「観経和讃」ではそれがさらに進んで『観経』の序分だけを取り上げているのです。教えの中心である正宗分(しょうしゅうぶん)にはほとんど言及せず、教えが説かれるに至った経緯を述べる序分にのみ注目するのはどういうことでしょう。先回りして結論をひと言いっておきますと、浄土往生の教え(「法」)にとって「機」の存在が決定的に重要だということです。
 ともあれ、最初の和讃を読みましょう。

 「恩徳広大釈迦如来 韋提夫人に勅してぞ 光台現国(こうだいげんごく)のそのなかに 安楽世界をえらばしむ」(第73首)。
 「釈迦のご恩ははてもなく、韋提夫人に勅命し、ひかりの台にあらわした、弥陀の浄土をえらばせる」

 わが子の悪業に絶望した韋提希が釈迦に「ただ願わくば世尊よ、わがために広く憂悩(うのう)なき処を説きたまえ。われまさに往生すべし」と願ったのに応じて、釈迦は眉間から光を放つのですが、「その光は金色(こんじき)にして、あまねく十方の無量の世界を照らし、還りて仏の頂に住し、化して金の台(うてな)となる。須弥山(しゅみせん)のごとし。十方諸仏の浄妙の国土、みな中に現わる」のです。これが「光台現国」です。
 そのとき韋提希はこう言います、「世尊よ、この諸仏の土の、また清浄にしてみな光明ありといえども、われいま極楽世界の阿弥陀仏の所(みもと)に生まれんことを楽(ねが)う」と。それに答えて釈迦はこう言うのです、「汝よ、いま知るやいなや。阿弥陀仏のここを去ること遠からざるを。汝よ、まさに念を懸けて、諦(あき)らかにかの国を観ずべし」と(『大経』では極楽浄土は「ここを去ること十万億刹」とありますが、『観経』では「ここを去ること遠からず」と言っています)。
 かくして釈迦は「かの国」と阿弥陀仏および観音・勢至菩薩を観る方法を説いていくことになります。ここから『観経』の本論(正宗分)が始まりますから、「観経和讃」も当然そこへ移っていくものと思いきや、話は戻って、なぜ韋提希が「極楽世界の阿弥陀仏の所に生まれんことを楽う」に至ったのか、その経緯を詳しくうたっていくのです。

タグ:親鸞を読む
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