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見えないけれども [『浄土和讃』を読む(その141)]

(8)見えないけれども

 最近読んだ文章にこんな一節がありました。「中世から近代にかけての大きな世界観の転換を別の言葉で説明すると、近代化が社会の中から人間以外のさまざまな存在を追い出してしまったと考えることができるのではないでしょうか。…江戸時代、あるいは鎌倉時代まで遡ったとき、おそらくその当時の人々は、人間だけでなくて、人間以外のさまざまなものが一緒になってこの世界を構成していると考えたのではないでしょうか。例えばご先祖さまや死者、それがわれわれの側にいて、同じようにこの社会を作り上げて、ある役割を果たしている。あるいは神さま、仏さまがまぎれもなく実在して、この社会のなかでわれわれと一つのある世界を作り上げていると考えていたのではないでしょうか」。
 近代という時代は、理性の眼で見えないものは存在しないものとして世界から放逐したと言えます。死者や神仏は「見えない」ものとして、われらのこころの中(観念の世界)に押し込んでしまった。「死んだ人や神さま仏さまはいるでしょうが、それはあなたのこころの中だけですよ」というわけです。こんなふうにして、不気味なもの、得体の知れないものは世界を構成するものとしては存在しないことにされ、世界は隅々まで理性で見通せることになりました。こうして世界はすっかりクリアな画像になりましたが、その分、本来そこに含まれていた、曖昧模糊としてはいるがそれだけに豊かな意味は消されてしまったのではないか。
 例えば死者。
 3.11がもたらした変化のひとつとして「死者の存在の見直し」があるような気がします。あの震災で亡くなったおびただしい数の死者たちは、ただ遺族のこころの内にいるだけでなく、ひとつの世界の中に共にいるという思いを口にする人が増えたと思います。どこにいるかと言われると答えに窮するが、でもこころの中ではない、この世界の中のどこかにいるという感覚。「見える」と言うと幽霊になってしまいますが、「見えない」けれども紛れもなく「いる」ということです。
 宿業も、理性の眼には「見えない」ですが、でも紛れもなく「ある」と言えるのではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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