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方便引入せしめけり [『浄土和讃』を読む(その142)]

(9)方便引入せしめけり

 さて次の和讃です。

 「弥陀・釈迦方便して 阿難・目連・富楼那(ふるな)・韋提 達多・闍王・頻婆沙羅 耆婆・月光・行雨等」(第78首)。
 「弥陀と釈迦とが方便し、多くの人をそろえては、悲劇の役をなさしめて、弥陀の救いをあらわさん」。

 続いて、「大聖(だいしょう)おのおのもろともに 凡愚底下(ぼんぐていげ)のつみびとを 逆悪もらさぬ誓願に 方便引入せしめけり」(第79首)。
 「これらの人はみな菩薩、愚かなわれらつみびとを、一人たりとももらさずに、本願海に引き入れる」。

 さらに続いて、「釈迦韋提方便して 浄土の機縁熟すれば 雨行大臣証として 闍王逆悪興ぜしむ」(第80首)。
 「釈迦と韋提の方便で、教えのときが熟しては、雨行大臣あかしして、闍世に逆悪おこさせる」。

 この3首は、王舎城の悲劇の登場人物たちはみな浄土の教えがこの世にあらわれるために、その方便としてそれぞれの役割を演じた菩薩たちであることをうたっています。
 新しい人物として富楼那と行雨(正確には雨行)が出てきましたが、富楼那は阿難・目連と同じく釈迦の弟子で、幽閉された頻婆沙羅王を訪れて説法をした人です。雨行は大臣の一人で、阿闍世が提婆達多から聞いた自分にまつわる悪いうわさがほんとうかどうかを確認した人物です(「雨行大臣証として」)。このように多くの人物によってこのドラマが展開されていくのですが、その人たちは「凡愚底下のつみびとを 逆悪もらさぬ誓願に 方便引入せしめ」るために現れた「還相の菩薩」たち(「大聖おのおのもろともに」)であると親鸞は見ているのです。
 王舎城の悲劇から「宿業」の思想を汲み取ってきましたが、親鸞はさらに一歩すすめて、その宿業の中に弥陀の「方便」を見るのです。悲劇を演じる人物は、それぞれの宿業を背負い、あるものは善をなすべくして善をなし、あるものは悪をなすべくして悪をなしているのですが、それぞれがなしていることには、本人にも窺い知れない深い意図が隠されているのだということです。ここには還相回向の具体的なありようが分かりやすい形で示されているのではないでしょうか。本人たちには思いもよらないことですが、その後姿を見れば還相の菩薩として衆生済度の役割を演じているということです。

タグ:親鸞を読む
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