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凡夫の救い [『浄土和讃』を読む(その143)]

(10)凡夫の救い

 その隠された意図が明らかになるのが、わが子に幽閉された韋提希が釈迦に救いを求めるところです。かくして韋提希が安楽浄土の教えを聞くことになるという「観経和讃」の第1首に戻ることになりますが、改めてその場面に目を転じましょう。韋提希は釈迦に「願わくば世尊よ、わがために広く憂悩なき処を説きたまえ」と願うのですが、その前に韋提希の口から次の注目すべきことばが漏れます。「世尊よ、われむかし、なんの罪ありてか、この悪子を生める。世尊もまた、なんらの因縁ありてか、提婆達多と眷属たる(提婆達多は釈迦のいとこです)」と。
 これこそ愚痴というものでしょう。「なんでわたしがこんな目にあわなければならないのですか」、「わたしが何をしたというのですか」と。
 どれほどこの悲嘆のことばが世にあふれていることでしょう。何か辛いことがわが身に起ると、「どうして他の人ではなくて自分なのか」と思う、これが愚痴です。ちょっと反省してみれば、「じゃあ、他の人だったらいいのか」ということになるのですが、そう気づいていながら、なお「何で自分が」と嘆かざるをえない。これが凡夫が凡夫たる所以です。韋提希は「なんでこのわたしが」と愚痴を言うだけでなく、釈迦に向かって「どうしてあなたは提婆達多などと親戚なのですか」と毒づきもします。凡夫の面目躍如と言わなければなりません。
 そんな凡夫のために浄土の教えは説かれたのだということです。それをはっきり示すのが次の釈迦のことばです、「汝は、これ凡夫なり。心想、嬴劣(るいれつ、弱く劣っている)にして、いまだ天眼をえざれば、遠く観ることあたわず。もろもろの仏・如来に異の方便ありて、汝をして見ることをえしむ」と。凡夫のための特別の方法があるから、それをこれから教えよう、というわけです。それが正宗分に説かれる「浄土を観るための十六の方法」です。

タグ:親鸞を読む
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