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摂取して捨てざれば [『浄土和讃』を読む(その148)]

(2)摂取して捨てざれば

 この、誰一人漏らすことなく、すべての衆生を摂取して捨てない、というところに阿弥陀の阿弥陀たる所以があります。「摂取して捨てず」の左訓(字句の左に小さく記された注釈)に「ひとたびとりてながく捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり」とあるのはよく知られていますが、ここに弥陀の本願の本質があります。たった一人でも例外を作れば、もうそれだけで弥陀の本願ではなくなります。例えば提婆達多。韋提希、そして阿闍世も救われたことは『観経』や『涅槃経』に書かれていますが、提婆達多については記述がありません。阿闍世をそそのかして王を殺させ、自分は釈迦を害して教団をのっとろうとした悪党ですが、このような人間も救われるのでしょうか。
 その通り、救われるのです、摂取して捨てられません。そうでなければ弥陀の本願ではなくなります。さてしかし「十方微塵世界の 〈念仏の〉衆生をみそなはし 摂取して捨てざれば」とあり、「十方微塵世界の 〈一切の〉衆生をみそなはし 摂取して捨てざれば」ではありません。としますと、提婆達多は「念仏の衆生」ではありませんから、摂取されないのではないでしょうか。伝えられるところでは、提婆達多は生きながら地獄におちたそうです。ひとりの例外もなく摂取して捨てないのが弥陀の本願であるはずですが、しかし念仏の衆生〈だけ〉を「みそなはし 摂取して捨てず」。
 これをどう考えればいいか、ここが胸突き八丁です。
 摂取不捨は、それに気づかなければ存在しないのです。十方微塵世界の一切の衆生が弥陀の光明に包まれています。そこにはひとりの例外もありませんから、提婆達多も間違いなく摂取されているのです。しかしです。いくら摂取されていても、それに気づかなければ摂取されていることになりません。愛は、それに気づかなければ存在しません。痛みも、それを感じなければ存在しません。同じように、弥陀の摂取も、それを感じなければ存在しないのです。提婆達多はおそらく摂取不捨の事実に気づいていなかったから、生きながら地獄の苦しみを味わったのでしょう。その事実に気づきさえすれば、生きながら極楽の楽しみを味わえたのに。

タグ:親鸞を読む
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