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「源左、たすくる」のこえ [『浄土和讃』を読む(その151)]

(5)「源左、たすくる」のこえ

 次の和讃も「諸仏証誠」をうたいます。

 「十方恒沙(じっぽうごうじゃ)の諸仏は 極難信(ごくなんしん)ののりをとき 五濁悪世(ごじょくあくせ)のためにとて 証誠護念(しょうじょうごねん)せしめたり」(第84首)。
 「微塵世界の仏たち、信じることのむずかしい、法を五濁の世のために、証しをたてて伝えたり」。

 なぜ諸仏が口をそろえて本願の教えを証誠しなければならないのかと言うと、まずそれが「極難信の法」であること、そしていまは「五濁悪世」であるからというのです。生きとし生けるものみんなに「幸せになれますよう」という本願がかけられていると聞かされたからといって、「そうですか」と簡単に信じられるものではありません。それに比べますと、「幸せになれるよう一生懸命努力してはじめて幸せがつかめます」ということばの何と通りやすいことか。しかも世は五濁悪世で、人を騙してやろうと待ち構えている悪党がわんさといますから、ますます信じてもらえないでしょう。そこで釈迦だけでなく「十方恒沙の諸仏」が弥陀の本願が真実であることを証誠してくれているというのです。
 弥陀の本願がありますと聞くのと、直に本願のこえを聞くのとはまったく別のことです。
 ぼくが弥陀の本願がありますと聞いたのは『歎異抄』からでした。それはまだ高校生の頃ですが、どういうわけか『歎異抄』のことばはこころの奥深くに届きました。でも直に本願のこえが聞こえたと思えたのはずっと後のことです。それはたとえば散歩道で見知らぬ方から思いがけず「こんにちは」の声をかけられたときのことです。その声が「幸せになれますよう」という本願のこえに聞こえた。因幡の源左も弥陀の本願というものがあるとは折にふれて聞いていたことでしょう、両親の口から、あるいはお寺で。でも、源左が直に本願に遇ったのは、ある朝草刈りから帰る途中で、おそらくは一緒にいた牛(デン)の口から「源左、たすくる(たすけるぞ)」のこえが聞こえたときです。
 ぼくに「こんにちは」のこえをかけてくださり、源左に「源左、たすくる」のこえを届けてくれたのが「十方恒沙の諸仏」に他なりません。「十方恒沙の諸仏」から直に本願のこえを聞いてはじめて「むかしの本願がいまはじまる」のです。

タグ:親鸞を読む
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