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一如よりかたちをあらはして [『浄土和讃』を読む(その154)]

            第10回 諸経和讃

(1)一如よりかたちをあらはして

 「大経和讃」、「観経和讃」、「小経和讃」と、浄土三部経をうたう和讃に続き、それ以外の経典、『法華経』や『涅槃経』、『華厳経』などの中で阿弥陀仏やその浄土がどのように讃嘆されているかをうたっていきます。全部で9首ですが、まずはその第1首。

 「無明の大夜(むみょうのたいや)をあはれみて 法身(ほっしん)の光輪きはもなく 無碍光仏としめしてぞ 安養界(あんにょうかい、浄土)に影現(ようげん)する」(第87首)。
 「無明の大夜あわれんで、宇宙のひかりはてもなく、無碍光仏のかたちとり、浄土にすがたあらわせり」。

 この和讃は『法華経』にもとづき、阿弥陀仏がかたちなき法性法身(ほっしょうほっしん)から、かたちをとって現れた(影現した)ことをうたいます。仏身には、法身・報身(ほうじん)・応身(おうじん)の三身があるとされ、法身とはいろもかたちもない一如そのものであり、報身とは菩薩としての誓願と修行が報われて仏となるもので、阿弥陀仏がそれであり、応身とは機に応じて穢土に姿を現わした仏で、釈迦仏がそれにあたるとされます。
 阿弥陀仏がかたちなき一如(いちにょ)からかたちをとって現れたという表現は親鸞の書くものにしばしば登場します。
 例えば『唯信鈔文意』。「仏性すなはち法性なり。法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたへたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身とまふす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちおば、世親菩薩は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり」。
 あるいは『一念多念文意』。「この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆへに、報身如来とまふすなり」。
 さらには『末燈鈔』第5通。「無上仏とまふすは、かたちもなくまします。かたちのましまさぬゆへに自然とはまふすなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とはまふさず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏とまふす、とぞきゝならひてさふらふ。弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり」。

タグ:親鸞を読む
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