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「無明の大夜」と「法身の光輪」 [『浄土和讃』を読む(その156)]

(3)「無明の大夜」と「法身の光輪」

 われらは「無明の大夜」(煩悩の世界)にいますが、それと「法身の光輪」(涅槃の世界)とはどう関係するのでしょう。すっきりしているのは、一方に「無明の大夜」があり、他方に「法身の光輪」が輝いているというニ世界説です。これは闇の世界と光の世界が並び立つという構図で分かりやすいとは言えますが、さてしかしこれでは闇の世界にとって光の世界は隔絶した別世界となり、どのようにして「この一如宝海よりかたちをあらは」すことができるのかが理解できません。
 いろもなく、かたちもない法性法身がかたちをとるというのは、「南無阿弥陀仏」の名号というかたちとなって現れるということでした。しかし「南無阿弥陀仏」のこえだけが中空をただようことはできず、そこには名号を称える諸仏の存在が必要です。草刈りに同道したデン(牛)や散歩道で出会う見知らぬ方などの姿をとった諸仏から「南無阿弥陀仏」という招喚の勅命(「帰っておいで」)を受けて、こころに喜びがわき上がり、それがまたこだまのように「南無阿弥陀仏」となってわれらの口をついて出る。かくして「南無阿弥陀仏」の交響曲が響きわたるのです。
 この交響曲において、「南無阿弥陀仏」を称える諸仏と、それを聞きながら自らも称える衆生との境い目が限りなく曖昧になり、いのちの宇宙の中で渾然一体となっています。そこでは「生きとし生けるものがみな幸せになりますよう」という願いが宇宙全体に満ち満ちているのです。ただ、どこまでも注意しなければならないのは、われら衆生は自分に見える姿においては煩悩具足の凡夫であるということです。そんな凡夫が「南無阿弥陀仏」に遇うことができ、その喜びが「南無阿弥陀仏」となってまた口から出て行くとき、自分には見えない後姿がどなたかにとって諸仏になっているだけのことです。
 われらはあくまで「無明の大夜」にあって、「法身の光輪」を仰いでいることを忘れるわけにはいきません。

タグ:親鸞を読む
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