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久遠実成(くおんじつじょう) [『浄土和讃』を読む(その157)]

(4)久遠実成(くおんじつじょう)

 さて「諸経和讃」の2首目です。

 「久遠実成(くおんじつじょう)阿弥陀仏 五濁の凡愚をあはれみて 釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶城(がやじょう)には応現する」(第88首)。
 「久遠のほとけ阿弥陀仏、五濁の凡愚あわれんで、釈迦牟尼仏のすがたとり、カピラの城にあらわれる」。

 この「久遠実成」については『法華経』「如来寿量品」にこう出てきます、「一切世間の天・人及び阿修羅は、皆、今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮(釈迦族の王宮)を出でて、迦耶城(ブッダガヤ)を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、悟り)を得たりと謂(おも)へり。然るに善男子よ、われは実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由他(なゆた、数の単位)劫なり。…諸の善男子よ、如来は諸の衆生の小法を楽(ねが)える徳薄き垢(く)重き者を見ては、この人のために、われは少(わか)くして出家して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説くなり」と。
 世間では、釈迦族の王子であったゴータマがブッダガヤの地において菩提樹の下で悟りを開き仏となったと言われているが、実は無限の過去に成仏しているのだというのです。釈迦はこの世で出家成仏したというのは、世間の人々を教え導くための方便にすぎないと。親鸞はこの『法華経』の所説から、久遠実成の仏とは阿弥陀仏に他ならず、その久遠の弥陀仏が「五濁の凡愚をあはれみて 釈迦牟尼仏と」なって応現したのだとうたっているのです。先に、法身・報身・応身の三身を上げましたが、久遠実成の弥陀が法身、十劫正覚の弥陀が報身、そして釈迦仏が応身ということになります。
 久遠の弥陀とは一如そのものですから、宇宙の永遠の真理とでもいうしかありません。あえてことばにしますと「生きとし生けるものはみな幸せになれるよう願われている」ということでしょう。十劫の弥陀とは、その永遠の真理が「南無阿弥陀仏」という姿をとったということです。「帰っておいで」という呼びかけになった。そして釈迦はその「南無阿弥陀仏」が人間の姿となったと言えます。正信偈では「如来所為興出世、唯説弥陀本願海(にょらいしょいこうしゅっせ、ゆいせつみだほんがんかい、如来世に興出したまふゆへは、ただ弥陀の本願海をとかんとなり)」ということです。

タグ:親鸞を読む
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