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釈迦以前にも釈迦が [『浄土和讃』を読む(その159)]

(6)釈迦以前にも釈迦が

 神の愛は十字架上のイエスによって届けられたとしますと、イエス以前の人たちは救われないのではないでしょうか。
 キリスト教の救いが真に普遍的でなければならないなら、イエス以前にもイエスはいたと考えなければなりません。釈迦についても同じではないでしょうか。もし2500年前の歴史上の釈迦だけが弥陀の本願を伝えたとしますと、それ以前の人たちは本願に遇うことができず、したがって救いにあずかれなかったということになります。仏教が真に普遍的であるとするなら、釈迦以前にも無数の釈迦がいなければなりませんし、釈迦以後にも無数の釈迦がいるはずです。
 次の和讃はこううたいます。

 「百千倶胝(くてい、大きな数の単位)の劫をへて 百千倶胝のしたをいだし したごと無量のこゑをして 弥陀をほめんになほつきじ」(第89首)。
 「どれほど長い時間かけ、どれほど多い舌をもて、どれほど声を出したとて、弥陀をほめるになお足らず」。

 弥陀の本願を称讃するのに、百千倶胝劫の時間でも足りず、百千倶胝の舌をもってしても尽くすことはできないというのです。これは歴史上の釈迦ひとりでなしうることではなく、百千倶胝の釈迦たちが「無量のこゑ」を上げなければなりません。この和讃は『小経』の異訳である『称讃浄土経』(玄奘訳)の文をもとにつくられていますが、『小経』では六方三十八仏が弥陀の本願を証誠しるのに対して、この経では十方四十二仏の名が上げられ、みなこころをひとつに弥陀を称讃しています。としますと、やはり釈迦以前にも無数の釈迦がいたのではないでしょうか。そして釈迦以後も無数の釈迦がいるに違いありません。
 このように釈迦以前にも以後にも無数の釈迦たち(諸仏)がいて、弥陀の本願名号を届けてくれているに違いないとしても、それで釈迦の値打ちがいささかでも下がるわけではありません。弥陀の本願や名号のもつ意味をはっきりしたことばで表してくれた存在としてむしろ燦然と輝くのではないでしょうか。イエスが十字架上の死という形で神の愛をこの上なく明らかにしてくれたように。

タグ:親鸞を読む
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