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往きやすくして人なし [『浄土和讃』を読む(その160)]

(7)往きやすくして人なし

 次の和讃です。

 「大聖(だいしょう)易往(いおう)とときたまふ 浄土をうたがふ衆生をば 無眼人(むげんにん)とぞなづけたる 無耳人(むににん)とぞのべたまふ」(第90首)。
 「往き易くして人はなし、釈迦はうたがうものたちを、眼も耳もないものたちと、名づけて信を勧めたり」。

 これは『目連所問経』という経典にもとづいています。この経典は今日残っていませんが、道綽の『安楽集』にその文が引用されています。「このゆへにわれとかく、無量寿仏国はゆきやすくとりやすくして、しかもひと修行して往生することあたはず。かへりて九十五種の邪道につかふ。われこのひとをときて、まなこなきひととなづく、みみなきひととなづく」。『大経』にも同じ趣旨のことばがあります、「往きやすくして人なし。その国逆違(ぎゃくい)せず、自然の牽(ひ)くところなり」と。
 どうして往きやすいのに人がいないのか。
 もうそこにいるのに、そのことに気づいていないからです。気づきさえすれば、もうそこにいるのですから、これ以上易しいことはありません。でも、そのことに気づきませんと、「無量寿仏国という素晴らしいところがあるそうだから、何とかしてそこに往きたい」と思うことでしょう。しかし、どれほど願い、どれほど修行を積んでも、それはできることではありません。考えてもみてください、もうすでにいるところにどうやって往くことができるでしょう。チルチルとミチルは、どこまで旅しても青い鳥を見つけることはできません。その鳥はすでに自分の家にいるのですから。
 もうそこにいるのに、そのことに気づかないなんて、そのひとは「まなこなきひと」、「みみなきひと」となりますが、より正確に言いますと、眼や耳がないというより「見れども見えず、聞けども聞こえず」ということでしょう。なぜ「見れども見えず、聞けども聞こえず」かといいますと、心の中に、それを見たり聞いたりすることに対する強いバリアがあるからに違いありません。

タグ:親鸞を読む
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