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見れども見えず、聞けども聞こえず [『浄土和讃』を読む(その161)]

(8)見れども見えず、聞けども聞こえず

 いやなことだったら、それを見たり聞いたりすることに抵抗が働くのは分かるが、いいことなのに、どうして「見れども見えず、聞けども聞こえず」となるのか、という疑問が出されるかもしれません。それはまったくその通りで、弥陀の本願に気づくことはとてつもなくいいことであるに違いありません。ですが、それと同時に、とてつもなくいやなことでもあるのです。それは自分の中のいやなもの(煩悩)がすべてひかりの中にさらけ出されることでもあるからです。弥陀のひかりに照らされるのは、この上ない喜びであるのは間違いありませんが、と同時に丸裸にされた己を見つめなければならない悲しみでもあるのです。
 弥陀のひかりに遇うことは無条件に喜ばしいことだと考え、それに伴う悲しみが忘れられがちですが、喜びには背中合わせに悲しみが張り付いています。ぼくらのこころは本能的にこの悲しみを避けようとするようです。そこで実際はもうすでに弥陀のひかりに照らされているのに、「見れども見えず、聞けども聞こえず」となる。このように、ぼくらは見たくないこと聞きたくないことを見ないよう聞こえないよう予防線を張り、その結果「見れども見えず、聞けども聞こえず」となるのですが、どうかするとこの予防線が緩むことがあります。そのときです、ひかりの中に己の醜い姿が浮かび上がるとともに、そんな自分がひかりに包み込まれて、もうすでに浄土にいることに気づくのです。
 前にこう言いました、どんなに素晴らしい法(本願)があっても、それを受け止める機(衆生)がいなければ、存在しないのと同じだと。それをさらにこう言い換えました、どんなに素晴らしいくすりがあっても、自分は病人だと気づいている人がいなければ、ないのと同じだと。したがって、素晴らしいくすりがあると気づくことは、自分はそのくすりを必要とする病人だと気づくことと背中合わせにくっついているのです。喜びは悲しみと切り離せないのです。

タグ:親鸞を読む
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