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即効薬ではない! [『浄土和讃』を読む(その163)]

(10)即効薬ではない!

 くすりと病人の譬えに戻りますと、本願とは素晴らしいくすりで、われらはそのくすりで助かる病人でした。どんな病気かと言いますと、煩悩という「死に至る病」です。この譬えの勘どころを改めておさえておきますと、「ああ、素晴らしいくすりがある」と気づくことは、「自分はこのくすりがなければ助からない病人だ」と気づくことと裏腹だということです。「自分は病人だ」と気づいていない人にとって、どんなに素晴らしいくすりも縁がなく、存在しないのと変わりない。
 本願に遇うというのは「素晴らしいくすりがある」と気づくことですが、それは取りも直さず「ああ、自分は病人なのだ」と気づくことに他なりません。それまでは自分はそんな病とは無縁だと思い(正確に言いますと、病だなんて「見れども見えす、聞けども聞こえず」)、素晴らしいくすりがあると聞きはしても馬耳東風でした。そこに突然「おまえは死に至る病にかかっているが、それに効く素晴らしいくすりがある」という知らせがやってきたのです。そのとき「助かりっこない自分もこのくすりで助かる」という喜びが身体全体を駆け巡るでしょう。
 これが「その心すでにつねに浄土に居す」ということですが、さてしかしこのくすりは飲んですぐ効くものではありません。特効薬であっても即効薬ではない。飲めば必ず効能があることは分かっているのですが、飲んでも煩悩が消えるわけではありません。なにしろ煩悩という病は「死に至る病」で、死ぬまで付き合わなければなりません。ところがそこに勘違いが生まれ、このくすりを飲めばすぐ治ると思ってしまう。和讃が「安養にいたりてさとるべし」とか「安養にいたりて証すべし」と言っているのは、その勘違いをいましめているのです。

タグ:親鸞を読む
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