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今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらく [『浄土和讃』を読む(その164)]

(11)今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらく

 『涅槃経』にもとづく3首の和讃は、来生の往生をめざして念仏しなさいと言っているのではなく、今生に悟りがあると勘違いしてはいけませんという趣旨です。今生に南無阿弥陀仏に遇うことができますと「その心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)のは間違いありませんが、それは決して悟ったということではありません、と釘を刺しているのです。
 唯円も『歎異抄』第15章においてこう言っています、「信心のさだまるときに、ひとたび摂取してすてたまはざ」るとしることを「さとるとはいひまぎらかすべきや。あはれにさふらふをや。浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくと、ならひさふらふぞとこそ、故聖人のおほせにはさふらひしか」と。
 しかしぼくらは遇いがたくして南無阿弥陀仏に遇うことができたのだから、そのとき世の中が一変するはずだと思ってしまうところがあります。これまた『歎異抄』の第9章で、唯円が親鸞におずおず尋ねるシーンがあります、「念仏まうしさふらへども、踊躍歓喜のこころ、をろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにてさふらふやらん」と。念仏をもうす身になったのですから、これまでとは違う自分にならなければと思うのですが、一向に変り映えしないのはどうしたことでしょうと尋ねているのです。
 それに対する親鸞の答えが秀逸です、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。…いささか所労(病気)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養の浄土はこひしからずさふらふこと、まことによくよく煩悩の興盛(ごうじょう)にさふらふにこそ」。南無阿弥陀仏というくすりを飲んでも、煩悩がなくなるわけではありませんと言っているのです。

タグ:親鸞を読む
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