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信心よろこぶそのひとを [『浄土和讃』を読む(その165)]

(12)信心よろこぶそのひとを

 煩悩がなくなるわけではないとしますと、南無阿弥陀仏のくすりはいったい何の役にたつのでしょうか。次の和讃はそれをうたいます。

 「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ 大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり」(第94首)。
 「信心よろこぶそのひとは、すでに如来とひとしくて、大信心は仏性で、仏性つまり如来なり」。

 この和讃は『華厳経』にもとづきます。「信巻」に引用されている経文は、「この法のききて信心を歓喜してうたがひなきものは、すみやかに無上道をならん。もろもろの如来とひとし」。まず信心は歓喜であるということを嚙みしめましょう。本願成就文にも「聞其名号、信心歓喜(その名号を聞き、信心歓喜し)」とあります。ぼくらには「本願は光明だが、われらは無明のなかにある」という思い込みがありますが、それはまだ本願に遇う前のことです。本願に遇えば、その光明に照らされて明るくなります。
 千年の暗室も、弥陀の光明がさせば、一瞬にして明るくなるのです。それはどんな喜びにも勝る喜びです。
 何よりもこころが明るくなります。それが嬉しい。煩悩が消えてなくなるわけではないのに、こころが明るくなり、喜びが込み上げるのです。こうして南無阿弥陀仏という特殊なくすりの効能が明らかになります。このくすりは病の根源である煩悩を取り去ってくれるのではなく、その症状を抑えてくれるのです。つまりこの療法は、原因療法ではなく、対症療法で、病の原因である煩悩を取り除くのではなく、それが引き起こすさまざまな症状を取り除くだけです。
 対症療法はしばしば侮られます、元を断たなければ意味がないと。しかし例えば風邪というありふれた病気でも対症療法しかありません。風邪に抗生物質を処方しても、抗生物質は細菌には効果があってもウイルスには役に立たないそうですからあまり意味がありません。結局、発熱とか鼻づまり、咽喉の痛みなどの症状を抑えながら、身体がウイルスとの戦いに勝つのを待つしかないのです。

タグ:親鸞を読む
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