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今日も生きておられてありがたい [『浄土和讃』を読む(その171)]

(4)今日も生きておられてありがたい

 一方で「病気になりませんよう」、「丈夫で長生きできますよう」と祈りながら、他方でそれを神仏にお願いするのは何かいかがわしいと感じる、ぼくらはそのはざまで生きているようです。
 さて親鸞は本願を信じ念仏をもうすものには息災延命のご利益があると言います。これはどういうことでしょうか。はっきりしているのは、息災延命のご利益を願って本願を信じ念仏をもうすのではないということです。それでは現世利益の〈ための〉宗教です。親鸞が言うのは、本願を信じ念仏をもうすものに〈その結果として〉息災延命のご利益があるということですが、それはなぜでしょうか。
 本願を信じ念仏をもうすものには、必ず仏になれるとの約束が与えられます。現生に正定聚となるのです。そして仏は無量の寿命があると『金光明経』に説かれています。としますと、本願を信じ念仏をもうすものには無量の寿命が約束されるということです。そして、将来かならず無量の寿命をもつことになるということは、「もうすでに」息災延命のご利益があるということではないでしょうか。
 将来かならず蛙になることが約束されているおたまじゃくしは、いまはおたまじゃくしの姿をしていても、もう蛙のようなものであると言ってもいいでしょう。同じように、将来かならす無量の寿命をもつことが約束されている正定聚は、もう無量の寿命をもつようなものではないでしょうか。
 朝起きて、「ああ、今日も生きておられた、ありがたい」と思えたら、それで一日寿命が延びたということだから、一日一日を感謝して生きることが長寿の秘訣だと教えてくれたのは金子大栄氏でしたか。「丈夫で長生きできますように」と念仏するのではなく、念仏することで「今日も生きておられてありがたい」と思えるから、その結果として長生きできるというのです。なるほどその通りだ、と納得させられたことでした。

タグ:親鸞を読む
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