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七難消滅の誦文 [『浄土和讃』を読む(その172)]

(5)七難消滅の誦文

 では2首目です。

 「山家(さんげ、比叡山延暦寺のこと)の伝教大師(最澄)は 国土人民をあはれみて 七難消滅の誦文(じゅもん)には 南無阿弥陀仏をとなふべし」(第97首)。
 「天台宗の最澄は、嵯峨天皇にこたえては、世の災難をなくすには、南無阿弥陀仏にしくはなし」。

 伝教大師最澄が『七難消滅護国頌(じゅ)』の中で、日照りや水害や疫病などの災難を消滅させるには南無阿弥陀仏と称えるにしくはないと述べていることをうけての和讃です。この和讃にも引っかかりを感じます。まず「誦文」ということば。同じ音のことばに「呪文」があり、真言密教の陀羅尼のことですが、これを唱えることによりさまざまな利益をえることができるとされます。南無阿弥陀仏がそのような呪文でないことは言うまでもありませんが、さてしかしどう違うのか。それは「七難消滅の誦文には、南無阿弥陀仏をとなふべし」をどう読むかに関わります。
 南無阿弥陀仏を称えれば七難消滅の利益がえられる、ということですが、これはしかし七難消滅の利益をえる〈ために〉南無阿弥陀仏を称えるべしと言っているのではないでしょう。これまた金子大栄氏がどこかで言われていることですが、「いいことをすれば幸せになれる」と「幸せになるためにはいいことをしなければならない」は同じようで違います。電車の中で誰かに座席を譲りますと、幸せな気持ちになります。でも、幸せな気持ちになろうとして座席を譲っても、幸せになれるものではありません。そこに打算があるからです。
 七難消滅の利益をえるために称える南無阿弥陀仏は「呪文」ですが、南無阿弥陀仏と称えて七難消滅の利益がえられたときの南無阿弥陀仏は「誦文」です。さてしかし、どうして南無阿弥陀仏と称えると七難消滅の利益がえられるのでしょう。どういう根拠でそんなことが言えるのか。

タグ:親鸞を読む
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