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どうして自分が? [『浄土和讃』を読む(その173)]

(6)どうして自分が?

 七難消滅の利益をえる〈ために〉念仏するのではなく、念仏すると〈その結果として〉七難消滅の利益があると言いましたが、どうしてそんなことが言えるのでしょう。念仏したって火事や水害の災難に遭うことはいくらでもあるじゃないかと思います。それはその通りで、南無阿弥陀仏は災難を避けることができる魔法の呪文ではありません。しかし南無阿弥陀仏で災難がもたらす苦しみを避けることができるのです。七難消滅の利益とはそういうことです。
 さまざまな災難に遭ったときの苦しみの根っこには「どうして?」という呻きがあります。「他の誰かではなく、どうして自分が?」という答えのない問いにもだえ苦しむ。これが苦しみを増殖させているのです。
 天敵に襲われる動物たちを見ていますと、群れの中のある個体が標的になります。そのとき選ばれてしまった個体は「あ、自分が標的になった」とは思うでしょうが、「どうして自分が?」とは思わないでしょう。そこに救いがあります。南無阿弥陀仏は、この「どうして?」という苦しみから逃れさせてくれるのです。災難に遭うことにはさまざまな苦しみが伴います。それを避けることはできません。でも「どうして自分が?」という苦しみの根っこが断ち切られれば、もう苦しみがそれ以上増殖することはありません。そしてさまざまな苦しみも時間とともに和らいでいくでしょう。
 さてしかし、南無阿弥陀仏に苦しみの根っこを断ち切る力があるというのはどうしてでしょう。南無阿弥陀仏とは「若不生者、不取正覚(むまれずば、正覚をとらじ)」の声だからです。「必ず救う」の声が届くこと自体がすでに救いだからです。災難の苦しみの最中にあって、実はもう救われているのです。この「ああ、救われた」の思いが、苦しみの根っこを断ち切ってくれるのです。

タグ:親鸞を読む
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