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生死すなはち涅槃なり [『浄土和讃』を読む(その178)]

(11)生死すなはち涅槃なり

 生死即涅槃。これは宇宙の真理をひと言で述べ尽くしたものと言えます。ただ、これだけをポンと提示されるだけですと、惑染の凡夫としては戸惑うしかありません。この生死流転の世界がどうしてそのままで涅槃寂静の世界なのか、これは明らかな矛盾ではないかと思わざるをえないのです。「お前は男である、しかしそのままで女である」と言われたようなもので、口をあんぐり開けるしかありません。
 生死即涅槃をかみくだきますと、「われらは救われていない、しかしそのままで救われている」となるでしょうが、これで矛盾の程度がいささかでも弱まったわけではありません。むしろさらに矛盾が露骨にさらけだされただけかもしれません。
 さあしかし、ここに南無阿弥陀仏の声が届きますと、生死即涅槃の相貌が一変するのです。南無阿弥陀仏とは「そのままのお前を必ず救う」という声でした。「そのままのお前」とは「久遠劫よりいままで流転してきたお前」であり、「救われるはずのないお前」ということです。「そんなお前が仏になれないならわたしも仏にならない(若不生者、不取正覚)」という声が南無阿弥陀仏です。
 お前が仏になるまでわたしも仏にならないと誓った法蔵菩薩が阿弥陀仏になられてこのかた、いまに十劫を経ているのです。ということは「そのままのお前を必ず救う」という声そのものがすでにして確かな救いだということです。その声が届いたこと自体が「すでに救われている」ということです。としますと「われらは救われていない、しかしそのままで救われている」ことにならないでしょうか。
 生死即涅槃ということばは、それだけでは何かよそよそしい顔つきをしていますが、それが「そのままのお前を必ず救う」という声になりますと、宇宙の真理が自分自身に届いたという実感を伴い、生死輪廻がそのままで涅槃寂静となるのです。これが「流転輪廻のつみきえて、定業中夭のぞこりぬ」の意味でしょう。

タグ:親鸞を読む
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