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わがこころのよくてころさぬにはあらず [『浄土和讃』を読む(その181)]

(14)わがこころのよくてころさぬにはあらず

 それで思い出すのが『歎異抄』13章でかわされる親鸞と唯円の会話です。「わたしの言うことを信じますか」、「もちろんです」、「では人を千人殺してみなさい、そうすれば必ず往生できます(ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし)」、「仰せではありますが、わたしの器量ではたった一人でもひとを殺すことはできません」。親鸞はここから「一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし」と述べて、すべては業縁によるのだと教えるのです。
 ぼくらは何ごとも自分の意思でなしているように思っています。ひとを殺すような人間は悪しきこころを持っているからであり、自分にはそんなこころはないからひとを殺すようなことはしないと。親鸞はそうした発想を否定するのです、「わがこころのよくてころさぬにはあらず」と。ただそのような業縁がないだけのことだと。ここでは宿業(過去の行為によって現在が支配されていること)が語られているのですが、目に見えない力によって支配されているのはそれにとどまるものではありません。たとえば、意のままにならない自然の力にぼくらの生存は左右されています。
 それがいちばん如実に感じられるのは天変地異に見舞われるときでしょう。東北の大地震・大津波や、御嶽の噴火、あるいは各地の水害など、地下や大気中にたまった巨大な力がある日地上に発現したということです。われらにとっては突然襲いかかわれたということですが、自然にとっては必然の成り行きにすぎません。そんな自然力によってわれらは翻弄されています。昔のひとたちはそれを神々の力と見たわけですが、それを自然の力なのだと言い換えたからと言って、目に見えない力に支配されていることに何の違いもありません。

タグ:親鸞を読む
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