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天地にみてる悪鬼神 [『浄土和讃』を読む(その183)]

(16)天地にみてる悪鬼神

 本題に戻りましょう。「天神・地祇はことごとく 善鬼神となづけたり これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり」ということでした。親鸞の目には世界のいたるところに神々がおわして、われらの一挙手一投足にまで見えない力が働いていたのでしょう。さてしかし、そうした見えない力は時に思いもかけない禍をもたらします。禍福はあざなえる縄のごとしです。それなのにどうして天神地祇は「念仏のひとをまもるなり」と言えるのか。
 次の和讃はこううたいます。

 「願力不思議の信心は 大菩提心なりければ 天地にみてる悪鬼神 みなことごとくおそるなり」(第107首)。
 「願よりきたる信心は、大菩提心なりければ、天地にみてる悪鬼神、みなことごとくおそるなり」。

 親鸞は南無阿弥陀仏に遇えた喜びの中で、周囲に満ち満ちる神々が自分を護ってくれていると感じられたに違いありません。しかし善い神々がいれば、悪い神々もいるはずです。先ほどは「天神・地祇はことごとく 善鬼神となづけたり」と言われていましたが、やはり「天地にみてる悪鬼神」もいるのです。しかし、どれほどたくさんの悪鬼神がいても、信心を得たひとに禍をもたらすことはできないとうたいます。どうしてそんなことが言えるのでしょう。
 その理由を親鸞は「願力不思議の信心は、大菩提心なりければ」と言います。信心というのは、われらが自分でおこしたものではなく、弥陀から賜ったものだからということです。大菩提心とは、われらの菩提心ではなく、弥陀の菩提心です。それがわれらに染まったのです(染香人ということばがあります)。もし信心が自分でおこしたものでしたら、天地にみてる悪鬼神たちに食い破られるかもしれませんが、それは弥陀からやってきたものですから、悪鬼神どもも「みなことごとくおそるなり」というのです。

タグ:親鸞を読む
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