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かげのごとくに身にそへり [『浄土和讃』を読む(185)]

(18)かげのごとくに身にそへり

 天神地祇が念仏のひとを「よるひるつねにまもるなり」とうたったあと、今度は菩薩たちも「かげのごとくに身にそへり」とうたいます。

 「南無阿弥陀仏をとなふれば 観音・勢至はもろともに 恒沙塵数(ごうじゃじんじゅ)の菩薩と かげのごとくに身にそへり」(第108首)。
 「南無阿弥陀仏となえれば、観音・勢至あいそろい、無数の菩薩ともなって、かげのごとくに身にそえり」。

 観音は慈悲の菩薩、勢至は智恵の菩薩とされ、阿弥陀仏の左右に脇侍として配されます。その観音と勢至が「かげのごとく」に身に添ってくださるというのです。『観経』では、臨終に念仏を称える人の枕元に阿弥陀仏とともに観音・勢至が迎えに来てくださると書かれていますが、このうたでは南無阿弥陀仏と称えるひとの身に「かげのごとく」寄り添ってくださると言われます。「かげ」はつねに「かたち」に添いますから、いつでも観音・勢至とともにあるということです。
 阿弥陀仏は南無阿弥陀仏となってわれらのもとに来てくださっていますし(「もはやわれ生くるにあらず、南無阿弥陀仏わが内にありて生くるなり」)、観音・勢至もまた「かげのごとく」に寄り添ってくださるのです。
 ぼくらはともするとこちらの娑婆にわれらがいて、向こうの浄土に阿弥陀仏や観音・勢至がいるとイメージしがちですが、それでは救いの確証がありません。向こうに弥陀や観音・勢至がいるとは言っても、ほんとうにいるのかという疑いはどこまでもつきまといますし、いると確信はしても、ほんとうに助けにきてくれるのかという不安が残ります。でも、阿弥陀仏は「わが内にありて生くる」のですし、観音・勢至は「かげのごとく」わが身に寄り添っているのですから、もはや何の疑いも、何の不安もありません。もうすでに救いが成就しているのです。
 さて、いつでも観音・勢至が「かげのごとく」身に寄り添っているということは、つねに弥陀の慈悲と智恵が「かげのごとく」寄り添っているということに他なりません。われらは南無阿弥陀仏によって慈悲と智恵に寄り添われる身となるのです。

タグ:親鸞を読む
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