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往昔恒河沙劫に仏世にいでたまひき [『浄土和讃』を読む(その190)]

(2)往昔恒河沙劫に仏世にいでたまへりき

 久遠の弥陀と十劫の弥陀について改めて思いを巡らしたいと思います。「永遠と時」の問題です。
 前に38億歳の話をしました。ぼくがいのちを得たのは69年前にすぎませんが、そのいのちの来歴をふりかえってみますと、少なくとも38億年の永きに及びます。地球上にふるえるようないのちが誕生したのが38億年前だそうで、そのいのちがさまざまに姿かたちを変えながら、このぼくにまでつながっているのです。その途中のどこかで一箇所でも切れていたら、ぼくは存在しません。だからぼくの年齢は正しくは38億歳だと言わなければなりません。
 いのちの歴史は「少なくとも」38億年の永きに及ぶと言いましたのは、そのさらに前史があるに違いないからです。キリスト教では「無からの創造」と言いますが、神がこの世界を創造するまで何も存在しなかったわけではないでしょう。その前に神が存在していたはずですから。その意味では無からの創造ではありません。無から突如、有が生まれることはありません。地球上にいのちが生まれたからには、その前史があるはずです(地球にぶつかった隕石の中にいのちの種があったとする有力な説があります)。
 ともあれ、個々のいのちはそれぞれの姿を持ち、あるとき生まれ、あるとき死んでいきますが、いのちそのもの、あるいは、いのちのもとは永遠です。久遠の弥陀とは「いのちそのもの」のことで、十劫の弥陀とは「いのちそのもの」があるとき法蔵菩薩としてあらわれたかたちです。法蔵は「いのちそのもの」の願いを南無阿弥陀仏のかたちにして生きとし生けるもののもとに送り届けようと誓い、それが成就して阿弥陀仏となったのが十劫の昔ということです。

タグ:親鸞を読む
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