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一子のごとく憐念す [『浄土和讃』を読む(その191)]

(3)一子のごとく憐念す

 次の和讃です。

 「十二の如来あひつぎて 十二劫をへたまへり 最後の如来をなづけてぞ 超日月光とまうしける」(第113首)。
 「十二の如来あいついで、十二劫ものときがたち、最後の如来その名をば、超日月ともうします」。

 ここでも『首楞厳経』と『無量寿経』では違いがあります。『無量寿経』では、「このゆえに無量寿仏を、無量光仏・無辺光仏・…超日月光仏と号す」というように、阿弥陀仏をひかりの仏として、そのありようを十二の名で表しているのですが、『首楞厳経』では、無量光仏があらわれた後、十二の如来が十二劫をかけて次々とあらわれ、その最後の仏が超日月光仏だとされます。そしてその超日月光仏から勢至菩薩が念仏三昧を教えられたと詠うのが次の和讃です。

 「超日月光この身には 念仏三昧をしへしむ 十方の如来は衆生を 一子(いっし、ひとり子)のごとく憐念(れんねん、あわれに思うこと)す」(第114首)。
 「超日月はわたくしに、念仏の道おしえては、生きとし生けるものみなを、ひとり子のごと慈しむ」。

 念仏三昧ということばにはこころをこらして仏の姿を思い浮かべる(観想念仏)というニュアンスがありますが、親鸞にとっての念仏三昧は、南無阿弥陀仏に遇うことができた喜びからおのずと南無阿弥陀仏が口からもれること(称名念仏)をさしているのは言うまでもありません。勢至菩薩はこの念仏三昧を超日月光である阿弥陀仏から教授され、それを衆生一人ひとりに手渡しするのですが、そのとき衆生の一人ひとりを「一子のごとく憐念す」というのです。
 「一子のごとく」については、諸経和懺のなかで「平等心をうるときを 一子地となづけたり 一子地は仏性なり 安養にいたりてさとるべし」(第92首)とうたわれていましたように、あくまで仏の境地で、われら凡夫のよくするところではありません。われらには一人ひとりをみんな「ひとり子」のように平等に接することなどできようはずがありません。あの子よりこの子、この子よりわが子というように、おのずと序列が生まれてしまうのが人情というものです。

タグ:親鸞を読む
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