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ひとへに親鸞ひとりがためなりけり [『浄土和讃』を読む(その192)]

(4)ひとへに親鸞ひとりがためなりけり

 一人ひとりに「一子のごとく」接することは到底できませんが、「一子のごとく」接してもらっていると感じることはあります。それを表現するのが次の有名な述懐です、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞ひとりがためなりけり」(『歎異抄』後序)。五劫思惟の願が届いたと感じるとき、それは自分にだけ届いたと思えるのです。因幡の源左に届いた本願は「源左たすくる」と聞こえたのであって「一切衆生たすくる」と聞こえたのではありません。本願は一人ひとりに「他ならぬお前を救う」と呼びかけているのです。
 ぼくは一時期、教職を目指す学生たちに教師としての心得を教えていたことがありますが、そのとき強調して語ったのは教師の視線のことです。学生たちを実際に教壇に立たせ、みんなに向かってしゃべらせてみますと、ほとんどの場合、彼らの視線は下を向くか、さもなければ宙をさまよいます。下を向くのは、教卓におかれたメモに眼を走らせているからで、宙をさまようのは、頭のなかで考えたことばを反芻しているからです。いずれにしても彼らは相手を見ていない。これではどんなに素晴らしいことをしゃべっても相手の心に届きません。
 ぼくが言ったのは、生徒の目を見て語れ、ということです。生徒はたくさんいますから、誰か一人を見つめるわけにはいかず、おのずと視線は一人ひとりの目を渡り歩くことになりますが、一瞬でも教師の目と生徒の目がしっかり合うということが大事であると。生徒からしますと、「あ、先生は自分に語りかけている」と思えるかどうかが決定的に重要だということです。「自分に語りかけられている」と感じてはじめて「聞かなくちゃ」という思いが生まれるのであり、「自分にだけ語りかけられている」と感じるところまでいきますと、こころの奥深いところまで届いているということです。

タグ:親鸞を読む
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