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大勢至菩薩の、大恩ふかく報ずべし [『浄土和讃』を読む(その195)]

(7)大勢至菩薩の、大恩ふかく報ずべし

 最後の2首は一体です。

 「われもと因地にありしとき 念仏の心をもちてこそ 無生忍にはいりしかば いまこの娑婆界にして」(第117首)。
 「われもと因地にありしとき、念仏の法あたえられ、不退のくらい定まりて、いまこの娑婆に戻り来て」。

 「念仏のひとを摂取して 浄土に帰せしむるなり 大勢至菩薩の 大恩ふかく報ずべし」(第118首)。
 「念仏のひと包み込み、浄土へともに帰らしむ、勢至菩薩の大恩を、忘れずふかく報ずべし」。

 「われ」が勢至菩薩であることは言うまでもありません。親鸞はこの2首をうたったとき法然上人をまぶたに浮かべていたことは疑いありません。そして勢至菩薩を本地とする法然上人の大恩をふかく感謝していたのに相違ありません。
 思えば親鸞が法然の近くでその教えを受けたのはたった6年間でした。29歳のとき、叡山を下りて六角堂に百日こもり不思議な夢を見たそのあくる朝、吉水の法然を訪ねたのでした。これが親鸞にとって念仏の道の始まりでした。ところがその法然の専修念仏集団に前代未聞の大弾圧が下り、親鸞は35歳にして越後に流罪となり、法然もまた土佐に流されることとなったのです。法然は流罪から許され京に戻ってまもなく亡くなりますから、二人が再び会うことはかないませんでした。しかし、吉水での6年間に念仏の香りは法然から親鸞の身にしっかり染み込んだのです。
 善智識ということばが浮かびます。
 善智識とはよき師のことですが、よき師というものは何かを教える人ではありません。その人の傍にいるだけで、よき香りが自然とうつってくる、そのような人です。そういえば金子大栄氏がどこかで言っていました、念仏の教えは風邪のようなもので、自然にうつっていくのだ、と。風邪がうつるのは困ったものですが、でも念仏も、とりたててうつそうと思わなくても、おのずからうつっていくと言うのです。もちろんうつす人がいるからうつるのですから、善智識はいなければなりませんが、善智識はただいるだけでいいのです。ただいるだけで、胞子が風にのって運ばれていくように、念仏が周囲に広がっていくのです。
 東国の弟子から土地の有力者から念仏が邪魔にされて困っていますと相談された親鸞は、その土地を離れて、別の場所に移りなさいと進言しています。そうすればその土地でまた念仏はうつっていくということでしょう。まさに念仏は風邪のようなものです。

               (第12回 完)

タグ:親鸞を読む
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