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二つの序文 [『歎異抄』を聞く(その2)]

(2)二つの序文

 一つの書物に序文が二つもあるというのはどうにも不自然ですが、その不自然さはこの書物が二つの部分から合成されていることを意味します。前の半分は第10章の途中までで、「故親鸞聖人の御物語のおもむき、耳の底に留まる所いささかこれをしる」しています。後の半分は二つ目の序文から第18章までで、「上人のおほせにあらざる異義ども」を著者が批判しているのです。
 そして最後に全体の締めくくりのことばがおかれていますが(後序と呼ばれます)、その中に不可解な一文があります。「かまへてかまへて、聖教(しょうぎょう)をみみだらせたまふまじくさふらふ。大切の証文ども、少々ぬきいでまいらせさふらひて、目やすにして、この書にそへまいらせてさふらふなり」。不可解といいますのは、「大切の証文」をこの書に添えるという以上、この文の後のどこかにあるはずですが、どこにも見当たらないということです。
 あったはずの証文がいつしか散逸してしまったと考えることもできますが、それよりも自然なのは、前半の第1章から第10章の途中までがそれに当たると理解することです。著者はもともと「大切の証文」を末尾に添えていたのですが、親鸞聖人の大事なおことばだから、やはり前におくべきだろうと考えを改めたのではないか。そうすると、あらためて全体の序文が必要となり、「ひそかに愚案をめぐらして云々」という文が冒頭におかれた。そして、もとの序文「そもそも御在生のむかし云々」はそのままにされたから、結果的に二つの序文というかたちになった、と。
 こう考えることで、第10章がまったく性質の違う二つの部分から合成されていることも納得できます。もともと末尾に置かれていた「大切の証文」を切り取り、前にもってきて接合する際に、最初の序文「そもそもかの御在生のむかし云々」と一体になってしまったということです。

タグ:親鸞を読む
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