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『歎異抄』を聞く(その5) ブログトップ

ぼくと『歎異抄』 [『歎異抄』を聞く(その5)]

(5)ぼくと『歎異抄』

 以上で、この書物のおおよその輪郭はつかめたと思いますが、さてこの700年以上も前の書物を読むことにどんな意味があるかということです。
 ぼく自身と『歎異抄』について語っておこうと思います。この本はぼくにとって運命的な本です。出会ったのは高校生のときでした。「倫理社会」の先生が夏休みの課題として、哲学・宗教の古典を読むよう指示されたのですが、その中にこの『歎異抄』が入っていたのです(それ以外に、プラトンの『ソクラテスの弁明』、デカルトの『方法序説』、懐奘の『正法眼蔵随聞記』などがあったように覚えています)。高校生のぼくらにとってとんでもなく高度な課題で、目を白黒させながら読んだような気がします。
 のっけから「弥陀の誓願」とか「往生をとぐる」とか「摂取不捨の利益」などということばが出てきて、理解できたなどとはとても言えないのですが、でも何か不思議な感覚がありました、「これは本物だ」と。「ここには真理が語られている」と言ってもいい。どうしてそんなふうに感じたかと尋ねられても答えようがありませんが、とにかくそういう直観があった。で、分からないながら、繰り返し読んだ記憶があります。ぼくはそのころ理系のクラスに属していたのですが、次第に哲学や宗教にこころ惹かれるようになっていきました。結局、大学は文学部哲学科に進むことになるのですが、この本はその方向を決める大きな要因になったようです。
 この本のどこにそんな魅力があるのか。その筆頭は、親鸞その人が自分の口で語っているということです。この講座のタイトルを「『歎異抄』を読む」ではなく、「『歎異抄』を聞く」としたのは、この本から親鸞の声が聞こえてくるからです。もちろん唯円がそれを聞いて、「耳の底に留まるところ」を記録しているのですから、唯円というフィルターを通っているとは言えます。でもこのフィルターは、親鸞のおそらくは結構長いことばからその枝葉を取り去り、唯円のこころの底にドシンと届いたそのエッセンスを取り出してくれているのです。

タグ:親鸞を読む
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