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『歎異抄』を聞く(その9) ブログトップ

第1章本文 [『歎異抄』を聞く(その9)]

         第2回―弥陀の誓願にたすけられる(第1章)

(1)第1章本文

 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益(りやく)にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重(ざいあくじんじゅう)、煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々。

 (現代語訳) 阿弥陀仏の不可思議な誓願(本願)にたすけられ往生させていただくと信じて、念仏申そうと思い立つこころが起こったとき、直ちに阿弥陀仏の光明に摂め取っていただき決して捨てられないという利益を与えていただけるのです。阿弥陀仏の本願には、年を取っていようがいまいが、善人だろうが悪人だろうが関係ありません。ただ信心だけが必要です。何故かと言いますと、阿弥陀仏の本願は罪重く、煩悩の炎が燃え盛っている衆生をたすけんがためのものだからです。ですから本願を信じるのに、他の善は必要ありません。念仏に勝る善はないのですから。悪をおそれることもありません。阿弥陀仏の本願を妨げるほどの悪はありませんから。こんなふうにおっしゃったことでした。

 むかしから、この章のなかに第10章までの「御物語(親鸞の語録)」のすべてが凝縮されており、第2章以下はこれを展開して具体化していると考えられてきました。実際、この短い文章に親鸞浄土教のすべてが盛り込まれていますから、これをさらっと読んだだけでは何だかちっとも分からない。そこで、これを3段に分け、何を言おうとしているのか、一文一文をゆっくり咀嚼していきたいと思います。

タグ:親鸞を読む
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