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弥陀の誓願 [『歎異抄』を聞く(その10)]

(2)弥陀の誓願

 あらためて第1章を3段に分けて読みますと、

 第1段―「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」。
 第2段―「弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします」。
 第3段―「しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々」。

 まず第1段ですが、ここで弥陀の本願にたすけられるとはどういうことかという、浄土教にとって核心となることをこれだけのことばで言いきっています。
 これをさらに各文節に分けて見ていきますと、まず「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて」とあります。弥陀の誓願(本願)と言いますのは、『無量寿経』によりますと、法蔵菩薩が「一切の衆生が往生できなければ(救われなければ)、自分も仏にならない(若不生者、不取正覚)」という誓願を立てられ、どうすればそれができるかを五劫のあいだ(気の遠くなるほど長い時間をかけて)思惟し、ついにみずから名号(南無阿弥陀仏)となってすべての衆生のもとにいたるという方法をとることで誓願が成就し、めでたく阿弥陀仏となられたということです。
 法蔵菩薩とか阿弥陀仏とかいう名前がでてきて、いかにも神話的な説き方ですが、生きていくなかで出あう不可思議な出来事をことばで表わそうとするとき、どうしても神話的な語り口にならざるをえないことがあります。神話的な説き方だから意味がないとして捨ててしまうのは、あまりにも浅はかであると言わなければなりません。神話的な手法で言おうとしている人生の事実は何であるかが大事であり、その事実がわれらが生きていく上で不可欠であるなら、その神話にはかけがえのない真実があります。

タグ:親鸞を読む
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